競輪の最高速度は70㎞。例えるなら、高速道路を走る車とほぼ同じスピードである中、ヘルメットとユニフォームだけ着用して戦っているのです。
まさに死と隣り合わせの世界。
当然、レース中に落車すると大怪我を負うことも少なくないうえ、打ちどころが悪いと命が失われてしまうケースも…
そこで今回は、競輪選手の死亡事故をはじめ、重大事故が起きてしまう原因や現在行われている対策などを解説します。
レース中に死亡した競輪選手一覧(一部映像あり)
レース中の事故で亡くなった選手について、分かっている範囲で状況や原因をまとめました。
競輪選手の死亡事故はこれまで約50件とされていますが、昭和の古い時代を中心に公表されていない事例も多くあるようです。
坂本照雄(2012年7月)
選手名 | 坂本照雄(さかもとてるお) |
生年月日 | 1972年6月5日 |
出身地 | 神奈川県 |
デビュー | 1994年4月17日 |
死亡日(年齢) | 2012年7月7日(40歳) |
神奈川の中堅レーサーとして活躍していた「坂本照雄」。事故が起きたのは2012年7月7日、地元小田原のレース。
最後の直線で前を走っていた選手が落車し、後方にいた坂本選手は咄嗟に内へ避けて回避を試みました。しかし、落車選手が逃げ道を塞ぐように滑り込んできてしまい、さらに内へハンドルを切るしかなく…
そのまま写真判定用ミラーボックスを保護するマットに激突。クッション性のマットだったのですが、余りのスピードで選手の身体を守ることはできず。
外傷性心肺不全により搬送先の病院で死亡が確認されました。
中垣輝光(2010年2月)
選手名 | 中垣輝光(なかがきてるみつ) |
生年月日 | 1961年11月12日 |
出身地 | 福岡県 |
デビュー | 1981年4月26日 |
死亡日(年齢) | 2010年2月15日(48歳) |
明るい性格で知られた福岡の「中垣輝光」。
かつてはG3の出走歴があったものの、徐々に成績を落としA級3班(最下級)へ降格。このクラスは最も賞金の低い“チャレンジレース”を走ることになりますが、悲劇はその競走中に起きてしまいます。
2010年2月15日の広島一般開催において、ラスト1周に入ったところで急激にスピードが低下。集団から離れると自転車に乗ったまま意識を失い転倒。この時点で心肺停止の危険な状態だったとのこと。
すぐさま緊急搬送されましたが、懸命な処置も虚しく帰らぬ人に。
死因は虚血性心疾患。前日の身体検査では異常がなかったという話もあり、予期せぬ突然のアクシデントだったようです。
内田慶(2008年9月)
選手名 | 内田慶(うちだけい) |
生年月日 | 1981年2月11日 |
出身地 | 東京都中央区 |
デビュー | 2002年8月3日 |
死亡日(年齢) | 2008年9月11日(28歳) |
デビュー当初から高い素質が注目され、ナショナルチームの一員として海外でも活躍した「内田慶」。
若くして抜群の追込を身につけG1でも結果を残しつつあった時期、事故に遭ったのはG1オールスター競輪の初日でした。
誰ともラインを組まない単騎で出走。最終周回3角から踏み出しを狙ったところ、後退した選手と追い上げる選手の間に左右から挟まれる「あんこ」の状態に。
そうした中、他選手との接触により前輪が壊れてしまい落車。その際、激しく頭部に衝撃を受け死亡。死因は外傷性くも膜下出血でしたが、ほぼ即死に近い状態だったといいます。
選手のみならず、業界全体にも大きな衝撃を与えたスター選手の事故死。あの事故がなければ、神山雄一郎のようなスター街道を歩んでいたはず。
時間を戻すことは不可能ですが、内田選手の早逝は競輪界全体にとって大きな損失という他ありません。
服部雅春(2003年1月)
選手名 | 服部雅春(はっとりまさはる) |
生年月日 | 1956年12月27日 |
出身地 | 埼玉県 |
デビュー | 1975年11月27日 |
死亡日(年齢) | 2003年1月3日(46歳) |
G1オールスター決勝進出など、20代の頃には特別競輪で活躍していた埼玉支部「服部雅春」。
事故が起きたのは、2003年伊東温泉競輪場で行われたお正月開催。自身2100戦目の節目となったレース。
番手から追走して最終周の直線で抜け出そうとした際、バランスを崩して蛇行。ゴールはしたものの、直後に意識を失って落車。この時すでに心臓は停止していたと報じられています。
すぐに緊急搬送されましたが、意識は戻らず数時間後に病院で息を引き取りました。
成島勇(1998年7月)
選手名 | 成島勇(なりしまいさむ) |
生年月日 | 1975年 |
出身地 | 東京都 |
デビュー | 1995年8月5日 |
死亡日(年齢) | 1998年7月24日(22歳) |
東京支部76期「成島勇」が命を落としたのは、1998年7月23日に地元立川で開催されたレース。
最終周回4コーナー付近で他選手と接触して転倒。その際、頭部を強打し頭蓋骨骨折により緊急搬送されましたが、そのまま病院で翌日死亡。
1995年8月にデビューして僅か3年足らずの事故。若干22歳という若さで天国へ旅立ちました。
東内典之(1992年5月)
選手名 | 東内典之(とうないのりゆき) |
生年月日 | 1962年 |
出身地 | 和歌山県 |
デビュー | 1981年11月1日 |
死亡日(年齢) | 1992年5月17日(30歳) |
デビューして間もない時期からG1で活躍し、激しいレーススタイルが特徴的だった和歌山支部の「東内典之」。地元記念で決勝に進んだ時には“鬼脚”と呼ばれた井上茂徳とラインを組んだこともある選手です。
事故が起きたのは、1992年5月17日に福井競輪場で行われたレース。
最終周回の2センターで前を走る選手と接触し転倒。その際に頭部を強打し、脳挫傷および急性硬膜下血腫で死亡。
1992年5月19日に登録抹消されるまでの通算成績は、802戦108勝・優勝18回。
福島昭亮(1967年4月)
選手名 | 福島昭亮(ふくしましょうすけ) |
生年月日 | 1937年3月16日 |
出身地 | 埼玉県 |
デビュー | – |
死亡日(年齢) | 1967年4月30日(30歳) |
1964年の日本選手権など、何度もG1決勝進出の実績を挙げた埼玉支部「福島昭亮」。
現役当時、1967年のオールスターに選出されたうえ、ファン投票上位選手のみが出場できる初日の“ドリームレース”に選ばれた人気レーサーです。
ただ、晴れの舞台となったそのドリームレースで落車し、頭蓋骨骨折により死亡。これからピークを迎える30歳という若さでの殉職でした。
ちなみに、オールスター競輪での死亡事故は、1959年5月の気賀沢希悦、2008年9月11日の内田慶と過去3例発生しています。
中村政光(1967年8月)
千葉支部の「中村政光」が亡くなったのは、1967年8月4日の静岡競輪場。G1全日本選抜競輪の前身とされる“全国都道府県選抜競輪”のレース中でした。
事故の詳しい記録は残っていませんが、落車による頭蓋骨骨折および脳挫傷で死亡。そのように報じているメディアが多数存在します。
気賀沢希悦(1959年)
神奈川支部の「気賀沢希悦」。1959年に大阪中央競輪場で開催されたG1オールスター競輪第4回大会での事故。公表されている死亡事故の中で最も古い事例となります。
詳細は不明ですが、レース中の落車による頭蓋骨骨折とされています。
オールスター競輪という大舞台で、ファンの期待に応えようと無理しすぎたのかも…
レース外で事故死した競輪選手
競輪選手の中には落車以外の原因によって死亡したケースも少なくありません。
普段のトレーニングでもレース並みのスピードで走るため、ちょっとした操作ミスで死亡事故に繋がってしまうのでしょう。
渡辺藤男(2024年4月)
選手名 | 渡邉藤男(わたなべふじお) |
生年月日 | 1966年5月7日 |
出身地 | 栃木県 |
デビュー | 1986年5月1日 |
死亡日(年齢) | 2024年4月12日(57歳) |
同じ栃木支部では神山雄一郎の4期先輩にあたる「渡辺藤男」。G1出場経験もある名選手ですが、亡くなったのはまさかの理由でした。
2024年4月12日、宇都宮市内にある施設で低圧カプセルに入っていたところ、意識を失って病院へ緊急搬送。賢明な処置も虚しく、約2週間後に低酸素脳症で死亡。
低圧カプセルとは、持久力が上がる高地トレーニングと同じ効果が得られる機器。過去に同様の事例がないことから、何らかの人為的な設定ミスがあった可能性も一部で囁かれています。
成清龍之介(2021年2月)
選手名 | 成清龍之介(なりきよりゅうのすけ) |
生年月日 | 1999年10月18日 |
出身地 | 千葉県 |
デビュー | 2020年5月15日 |
死亡日(年齢) | 2021年2月24日(21歳) |
2020年5月にデビューした「成清龍之介」。
G1出場の実績もある“成清貴之”の息子として競輪界に舞い降りると、デビュー2ヵ月後のチャレンジ開催で優勝。期待通りの結果を残し、将来有望なルーキーとして注目されました。
しかし、2021年2月24日、袖ケ浦市の市道で練習中にトラックと衝突。頭などを強く打って病院に運ばれた約1時間半後、頭部外傷などにより21歳という若さで死亡。
トラックは路肩に停車中だったことから、成清選手が前方をよく見ないで走っていたことが原因とされています。
才能豊かで未来しかない若者の死。悔やんでも悔やみきれない事故…
神子卓也(2015年4月)
選手名 | 神子卓也(かみこたくや) |
生年月日 | 1977年7月11日 |
出身地 | 神奈川県 |
デビュー | 2000年8月11日 |
死亡日(年齢) | 2015年4月27日(37歳) |
2000年8月にデビューした「神子卓也」。上記で紹介した“成清龍之介”と同様、神子選手も街道での練習中に命を落としています。
2015年4月27日、神奈川県三浦市の県道を走っていたところ、後ろから走ってきたトラックに追突され、搬送先の病院で死亡が確認されました。
トラックを運転していた関沢幹雄さん(53)から「自転車とぶつかった」と通報があり、現場で神子 卓也(神奈川・85期)さんが倒れており、病院で死亡が確認された。現場はトンネルで片側1車線の直線道路。神子さんは自転車に乗っており、後方からトラックが衝突したと見られており、三崎署が状況を調査している。
片側1車線のトンネル内。しかも、自動車ほどの速度で走っていた神子に気づくのが遅れたのだろう
富澤勝行(2010年3月)
選手名 | 富澤勝行(とみざわかつゆき) |
生年月日 | 1980年6月20日 |
出身地 | 千葉県 |
デビュー | 2000年8月10日 |
死亡日(年齢) | 2010年3月18日(29歳) |
S級在籍の経験もあった千葉支部「富澤勝行」。事故に遭ったのは、通算200勝を達成した2ヵ月後の2010年3月19日。
千葉県栄町の国道を6人で走行中、対向してきた大型トラックと衝突。すぐさま病院に運ばれたものの、頭蓋骨骨折などにより約3時間後に死亡が確認されました。
事故原因は、車道にあるポールに接触。バランスを崩したところへトラックが衝突したとされています。
平間誠記(1968年8月)
選手名 | 平間誠記(ひらませいき) |
生年月日 | 1937年3月21日 |
出身地 | 宮城県刈田郡蔵王町 |
デビュー | 1959年6月27日 |
死亡日(年齢) | 1968年8月21日(31歳) |
G1優勝5回と輝かしい実績を残した宮城支部「平間誠記」。
1967年には日本選手権・高松宮記念杯・競輪祭を優勝して賞金王タイトルを戴冠。飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた中、突然の悲劇は翌年に起きてしまいます。
1968年8月16日、平塚競輪場での練習中、1列で走行中に転倒した前の選手に乗り上げたことが原因で落車。意識不明のまま病院に運ばれましたが、脳挫傷のため5日後に死亡。
全盛期にあったトップレーサーの事故死は、当時の競輪界にとって大きな衝撃だったことでしょう。
落車事故で引退・長期離脱した競輪選手
落車事故で一命は取り留めたものの、復帰まで相当の期間を要したり、引退に追い込まれた事例は数多く存在します。
渡邉栞奈(2024年8月)
選手名 | 渡邉栞奈(わたなべかんな) |
生年月日 | 1996年10月22日 |
出身地 | 静岡県 |
デビュー | 2022年4月30日 |
事故日 | 2024年8月頃 |
静岡支部のアイドルレーサー「渡邉栞奈」。
父は2008年の日本選手権などG1優勝2回の渡邉晴智。兄は2016年ヤンググランプリ覇者の渡邉雄太という競輪一家た。
2022年4月にデビューして着々と成長していた中、2024年8月の練習中に落車。全身11ヵ所を骨折して一時は意識不明の状態に陥りますが、その後の処置で徐々に回復。
2024年現在、復帰に向けたリハビリを続けています。
田仲敦子(2022年7月)
選手名 | 田仲敦子(たなかあつこ) |
生年月日 | 1984年10月21日 |
出身地 | 熊本県熊本市 |
デビュー | 2013年5月11日 |
事故日 | 2022年7月13日 ※2024年1月引退 |
高校教諭から競輪選手に転身し、ガールズ2期生となる104期でデビューした「田仲敦子」。
結婚後も競技を続けていましたが、2022年7月の高松決勝戦で頭部を強打する落車事故。
脳内出血の重症を負い、一時は右半身が麻痺した状態に。 その後、ドクターストップにより復帰は叶わず、2023年末に代謝対象で無念の引退。
現在はJKAのスタッフとして、地元熊本競輪場で業務に従事しています。
志佐明(2020年5月)
選手名 | 志佐明(しさめい) |
生年月日 | 1989年7月28日 |
出身地 | 神奈川県 |
デビュー | 2015年7月2日 |
事故日 | 2020年5月 |
神奈川支部のイケメンレーサー「志佐明」。
好調期にはS級で安定した成績を残し、2019年はG1競輪祭にも出場。
しかし、翌2020年5月、練習中の落車で頭部を負傷。幸い命に別状はなかったのですが、頭蓋骨骨折に加えて脳挫傷も発症。全治1年以上の大ケガとなりました。
それでも懸命のリハビリで復帰を果たし、A級3班のチャレンジレースから再スタート。2024年後期にはA級1班までクラスを上げています。
林雄一(2019年9月)
選手名 | 林雄一(はやしゆういち) |
生年月日 | 1978年8月26日 |
出身地 | 神奈川県 |
デビュー | 1999年 |
事故日 | 2019年9月 ※2020年3月引退 |
南関東を代表するマーク屋としてG1でも活躍した「林雄一」。
順調だった選手生活が暗転したのは、2019年9月の松阪G2共同通信社杯初日。
最終周回の2センターで急に意識を失い落車。一時は心肺停止の状態となりましたが、同じ南関東の中村浩士がAEDと心臓マッサージで救命。この処置が功を奏し、運ばれた病院で意識を取り戻しました。
落車の原因はレース中の心室細動(運動誘発性不整脈ともいわれている)。
残念ながら、高次機能障害が残ってしまい後に引退。現在は評論家として活動しており、YouTubeチャンネルでは覆面をかぶった“オダワライダー”というキャラクターで予想解説などを行っています。
加瀬加奈子(2015年12月)
選手名 | 加瀬加奈子(かせかなこ) |
生年月日 | 1980年5月31日 |
出身地 | 新潟県長岡市 |
デビュー | 1988年7月1日 |
事故日 | 2015年12月 |
ガールズ1期生の看板選手である大ベテラン「加瀬加奈子」も、過去に大きな落車事故を2度も経験しています。
1度目は、2015年12月の四日市。6人の集団落車に巻き込まれて脳挫傷の大怪我を負い、事故の影響で嗅覚が働かない後遺症が残っているらしい。
2度目は、2016年に競技会のレース中で落車。頭部を強打しくも膜下出血で搬送され、再び長期離脱を余儀なくされました。
度重なる大事故で一時は引退を覚悟したそうです。ただ「ガールズ競輪で食っていかなきゃ」自分を鼓舞して現役続行。
結婚と出産を経てママさんレーサーとなり、2024年7月には地元弥彦で通算56回目のVを飾っています。
競輪の危険性や殉職者が多い理由
競輪は他の公営競技と同じく、常に命の危険と隣り合わせで競い合う競技。また、少しの不注意や判断ミスが多くの選手を巻き込む事故へと繋がってしまいます。
競輪の最高速度は70km
一流の競輪選手がレースで出せる最高速度は約70km。さらに、すり鉢状のバンクを走るので、コーナーでのスピードもほぼ落とさず走行可能です。
競輪で使われるのは「ピストバイク」と呼ばれるブレーキが付いていない自転車。
選手自身が速度をコントロールするのは難しく、接触などによってバランスが崩れると落車のリスクが大きくなります。
バンクの表面は硬くて粗い
競輪場の走路となるバンク素材は、硬いアスファルトやコンクリートが使われているため、落車すると身体へのダメージは想像を絶するものとなります。
そして、競輪は雨が降っても開催されるので、スリップ防止のためバンクの表面には細かい凹凸があります。これを「わさびを擦りおろすサメ皮の板みたい」と比喩する選手も。
落車した時には大きな擦過傷(擦り傷)ができることも少なくありません。
密集した状態で走るリスク
競輪選手はレース中縦1列になって走ります。前との間隔を詰めて走ることで風圧が減り、速度を落とさずついていけるからです。
しかし、勝負所になるとそれぞれのラインが前へと踏み込んでいき、競り合いになれば隊列が横に2列、3列と広がることも。また、密集したまま最高速に達し、選手同士の接触などによって危ない状況が生まれます。
特に両端の選手に挟まれる“あんこ”や、前を走る選手の後輪と自分の前輪がぶつかる“ハウス”は落車リスクが高まり、時には不可抗力となるケースも多々あります。
防具を着けずに走る選手もいる
競輪においてヘルメットの装着は義務ですが、それ以外の装備についてはおおむね選手の自由とされています。
当然、グローブやプロテクターなどを着用すれば安全性が増す一方、重装備でスピードが落ちるデメリットが生じることで、着用の判断は選手によって様々。
G1クラスのレースでは、少しでも軽い状態で走れるようプロテクターを着けずに走る選手が多い印象。
とはいえ、落車は交通事故レベルの衝撃となるため、軽装備の選手にはそれなりの覚悟も必要となります。
落車時の頭部や頸椎の強打
殉職者で最も多い死因は、頭部をバンクに激しく打ちつけたことによる頭蓋骨骨折や脳の損傷。その理由は、首を保護しておらず、頸椎への衝撃が大きいからでしょう。
落車に備えた「受け身の技術」を競輪学校で学んでいますが、命の危険が及ぶのはこの受け身を取れなかった時。
前のめりに落ちたり、バンクの傾斜と反対側に転んだりすることは絶対に避けないといけません。
金網やコース内設備への衝突
競輪の自転車(ピストバイク)は操縦が難しく、バランスを崩すと操縦不能となることもあるそうです。
普段よく見かけるのは、過度な接触や前の落車を避けようとして急にハンドルを切ったケース。そのような時に危ないのが、金網やコース内設備(写真判定用ミラーボックス・周回板など)への衝突となります。
コース内設備には保護マットが置かれているものの、2012年に起きた坂本照雄選手のように命を守れなかった例も存在します。
また、金網にはクッション性がないので、外に振られて衝突するのは大変危険です。
レース中やゴール後の心肺停止
競輪は残り1~2周の速さを競うスプリント競技。ペダルを踏み込んだり他選手との競り合いなど、心臓や肺に大きな負担を掛けて走っています。
体調万全なら問題ないかもしれません。しかし、過去には競走中やゴール後に倒れてしまい、心疾患などで亡くなった例も。
近年、モーニングからミッドナイトまで開催時間の幅が拡大した競輪。特に下位ランクのA級選手やガールズ選手は多忙を極めるので、命を最優先にした日程管理をしてもらいたい。
競輪の死亡事故は減少傾向
2012年以降、競輪界でレース中の死亡事故は発生していません。
理由として考えられるのが、競走ルールの見直しや用具の性能アップなど。安全性向上を考慮した様々な対策が挙げられます。
公営競技の死亡事故件数比較
競輪以外の公営競技についても、事故で選手の命が失われたケースが複数あります。2000年以降のレース中における死亡事故件数は以下の通り。
- 競輪:4件
- 競馬(JRA・地方合計):6件
- オートレース:6件
- 競艇:8件
競艇と並んでレース数の多い競輪ですが、死亡事故に関しては件数、発生率ともに他競技より少ない傾向にあります。
落車減少に向けたルール改正
競輪で重大事故が減少したきっかけは、1990年代に導入された「事故点制度」とされています。
減点対象となるのは「失格3点・重大走行注意1点・走行注意0.2点」。級班を決める競走得点からマイナスされるので、減点回避する意識が強くなったのかもしれません。
そして、2000年夏から現行の累積システムに。連続する4ヵ月間で一定の点数が貯まった場合、最大3ヵ月の斡旋停止処分が言い渡されます。
また、競輪の世界にも「お寺行き」の制度があり、重大走行注意が1ヶ月に3回つくと5泊6日の特別指導訓練(京都・黄檗寺)が決定。
いずれにせよ、やりすぎると自分の首を絞めてしまうルールです。
自転車やプロテクターの改良
安全性の追求は道具においても進んでいます。
まず自転車。レースの公正安全を確保するために定められた「NJS認定」を受けたものしか使用できず、車体を構成する全部品が対象となります。
次に、ヘルメットやプロテクターなどの装備品。落車の衝撃を吸収するだけでなく、軽量化や空気抵抗を減らすための工夫など、メーカーの高度な技術が継続的に取り入れられています。
男子競輪でも「国際ルール」を導入
現在のガールズケイリンは「国際ルール(インターナショナルルール)」でレースが実施されており、2025年度から男子競輪でも同じ方式を取り入れることが決定しました。
対象となるレースは「競輪ルーキーシリーズ・競輪ルーキーシリーズプラス」。ライン形成が禁止され、押圧や押し上げといった横の動きも厳しく制限されます。
ただ、新人選手は全員が自力型。そもそもラインはあまり機能してないので、国際ルールにしても大して影響はなさそう。
むしろ、レース慣れしていない選手同士、事故防止に対する思いが強くなるはず。
まとめ
今回は競輪の死亡事故について、過去の事例から現在の安全対策まで幅広く紹介しました。
ルールが緩かった時代には激しいぶつかり合いや、金網の近くまで選手を押し上げていくプレーも日常茶飯事。これを“古き良き競輪”という声もありますが、危険な環境下で殉職者が出るのはもう見たくありません。
初心者のファンが増え、売上も右肩上がりが続いている競輪界。成長を止めないためにも、より安全な競技となることを願うばかり。
コメント